#09_中山七里「さよならドビュッシー」

ピアニストからも絶賛!ドビュッシーの調べにのせて贈る、音楽ミステリー。ピアニストを目指す遙、16歳。祖父と従姉妹とともに火事に遭い、ひとりだけ生き残ったものの、全身大火傷の大怪我を負う。それでもピアニストになることを固く誓い、コンクール優勝を目指して猛レッスンに励む。ところが周囲で不吉な出来事が次々と起こり、やがて殺人事件まで発生する―。第8回『このミス』大賞受賞作品。

さよならドビュッシー (宝島社文庫)

さよならドビュッシー (宝島社文庫)


 あらすじを読んで面白そうだと感じつつも、タイトルから敬遠していた作品。と言うのも、私はほとほと音楽には疎い。義務教育を終えた後の芸術科目はもっぱら美術を専攻しており、クラシックの知識はゼロに近いのである。当然「ドビュッシー」がどんな人物かも知らないし、もっと言えば作曲家であったことすら曖昧な始末なのだ。
 とは言え食わず嫌いは良くないし、漫画「のだめカンタービレ」は好きだったし…と、とにかく読み始めてみた。

 物語は、主人公の香月遙が火事に巻き込まれるところから始まる。全身大火傷という重傷を負いながらも命だけは助かったが、莫大な資産を持った祖父と、従姉妹の片桐ルシアは亡くなってしまう。ルシアはかつてインドネシアに住んでいたのだが、スマトラ沖地震により両親を亡くしており、遙の両親との養子縁組によってもうすぐ姉妹となるはずであった。ショックと悲しみも治まりきらないなか、弁護士によって祖父の遺言状が読み上げられる。そこには、十二億七千万円にも上る総資産の半分を遙に相続させるという驚くべき内容が書かれていた。
 戸惑いつつも、遙は以前からの夢であったピアニストになるため、火傷の後遺症を押しながらピアノのレッスンを開始する。講師を名乗り出たのは、人気と実力を兼ね備えた若手ピアニスト・岬洋介であった。岬のピアノセンスと全てを見透かすような英知に驚きながらも、遙は懸命にピアノの練習に取り組み始めた。しかし、まるで誰から命を狙われているかのような、不吉な事件が遙の周辺で次々と起こり出す。遺産相続をめぐる身内の犯行か、それとも―。

 主人公は春から音楽科の私立高校に入学したばかりの少女であり、彼女の口語体によって書かれている。大人になりきらない微妙な年齢ならではの、不安や悩みが等身大に表現されており、境遇こそ特殊ではあるが中身はどこにでもいそうな女の子である。火傷によって満足に動かせなくなった体を嘆きつつも、ピアニストになるべく猛レッスンする様子は好感が持てる。他者の素晴らしい演奏を聴いて劣等感を感じたり、同級生によるいじめや周囲の大人からの好奇の目線に心を痛めたりはするが、ピアノが好きという気持ちは一貫しており、やがて前を向き直して立ち直っていく強さを持ち合わせている。このあたりは、少年漫画の主人公のような性質にも似ている。
 もう一人、主人公にマンツーマンでピアノを教えながら、周囲で起きる不審な事件にも鋭い洞察力と推理力を見せ、時には心のケアをするような発言もする―、どこを取っても完璧としか言えないキャラクターが岬洋介である。自身は世間で注目を集める人気の若手ピアニストであり、おまけに容姿端麗ときている。この岬先生が、とにかくカッコイイのだ。語り口は柔和だがピアノを教えるに際しては甘やかすことを決してせず、どんな時にでも落ち着いている。ときに驚くほど的を射た助言をし、主人公が「魔法使い」であると形容したこともうなずける。これは女性読者に限ってであるが、岬洋介という人物を見るという意味だけでも、一読の価値があると思う。それほど格好良くて、魅力的なキャラクターなのだ。

 遙がピアノのコンクールで勝つことは出来るのか、家族の周辺で起きる不可解な事件の犯人は誰なのか。この二つが同時進行で進んでいくために飽きさせない。お互いが良いバランスであり、ミステリとしての資質を十分に残しつつも、スポ根的な(この場合はスポーツではなく音楽であるが)青春小説としての要素も加味されている。そういう意味では、どのような人にも読みやすい小説と言えるかもしれない。
 懸念していた音楽の知識不足であるが、これはそれほど気にならなかった。もちろん作曲者名やクラシックのタイトルはしばしば登場するので、もしそれがどんな曲か思い浮かべることが出来たならもっと違う感じ方があったのであろうが、ほとんど何も分からない私でも十分に楽しむことが出来た。おそらく、作者がそのように気を使って著作しているのであろう。


↓以下ネタバレ


 一つ残念なのは、人物入れ替わりのオチが予想出来てしまったこと。というのも、文庫の帯に「最後にドンデン返しがある」と書かれていたのだ。これは少々頂けない。ドンデン返しってことは、きっと…と、ある程度ミステリに慣れ親しんでいる読者であれば察しがついてしまう。ここはもっと、素直に驚きたかった。

 そうは言っても、中盤の緊張感やピアノ演奏シーンの表現はとても引き込まれるし、少々切ないラストも良い読後感を残してくれる。伊達に『このミス』を取っていない、大変面白い作品であった。
 本作の続編として『おやすみラフマニノフ』が刊行されており、こちらも音楽を題材としたミステリであるらしい。すっかり「岬洋介」のファンになってしまった私としては、文庫化を楽しみに待つばかりである。

#08_清水義範「迷宮」

24歳のOLが、アパートで殺された。猟奇的犯行に世間は震えあがる。この殺人をめぐる犯罪記録、週刊誌報道、手記、供述調書…ひとりの記憶喪失の男が「治療」としてこれら様々な文書を読まされて行く。果たして彼は記憶を取り戻せるのだろうか。そして事件の真相は?言葉を使えば使うほど謎が深まり、闇が濃くなる―言葉は本当に真実を伝えられるのか?!名人級の技巧を駆使して大命題に挑む、スリリングな超異色ミステリー。

迷宮 (集英社文庫)

迷宮 (集英社文庫)


 『治療と言われて文章を読んでいる記憶喪失の男は、何者なのか。』『文章の中で語られる事件の全貌とは?』
読者は二つの疑問を抱えながら、ページを進めることになる。男が治療として読まされる文章に書かれているのは全て、実際に起きた(と説明される)猟奇殺人事件についてである。それは、籐内真奈美という二十四歳のOLが、ストーカーに付きまとわれたあげくに殺害され、性器の部分を切り取って持ち去られるという凄惨なものだった。
 同じ事件を書いてはいるものの、男が読まされる文章は全て違う形式のものである。様々な角度から一つの事件を見るにつれて、徐々に被害者や犯人の印象は変化していく。日増しに男は、自分がこの事件の犯人ではないかと疑念を抱き始める。

 最初に事件のあらましを淡々と説明しておき、日を追うごとに犯人の置かれていた劣悪な家庭環境や、被害者の俗っぽくて打算的な一面が浮き彫りになってくる。
 一見単純なストーカー殺人事件を様々な角度から見ると、徐々に違った印象を受けるようになる。はじめに提示された骨組みが、読み進めるにつれて肉付けされていくようで面白い。
 文庫版の解説では清水義範の文体模倣はもはや、神技の域に達した名人芸、と言わざるを得ない。」と書かれているが、確かにそれぞれの文章はとても一人の作家が書いたものには思えず、違和感なく読むことが出来る。しかしそれ故に「取材記録」の文章などは、句読点の付け方やひらがなと漢字の使い方が大変読みづらく感じた。取材中に録音した内容をテープ起こしした、という設定なのでわざとなのかもしれないが、読んでいるとしばしば突っかかりのような感覚を覚え、集中力を削がれてしまう。

↓以下、ネタバレ

 記憶喪失の男は予想どおり事件の犯人であり、治療と称して文章を読ませ続ける“治療者”の正体は文章を書いた本人である小説家である。これは特に意外な展開でもないのだが、ラストシーンが少しクセがある。
「私は、言葉を失ってしばらく沈黙してしまった。しかし、十秒ほどたって、とうとうたまらず声をたてて、くっく、と笑ってしまった。」
ラスト二行の文章である。
 これは「途中から記憶が回復していたのではないか」と言う問いに対するリアクションなのだ。明確な表現ではないがこの「笑い」からは、やはり記憶が戻っていると捉えるのが妥当であろう。では、一体いつから?読み返してみたのだが、どうやらヒントになるような記述は見当たらない。
 主人公に裏切られる形でラストを迎えるミステリは少なくないが、中でも本作はかなり後味の悪い余韻を残す。ただし「後味が悪い」とは決して悪いばかりの意味ではなく、時を置いてもう一度読んでみようか、と思わせるものだ。
 人間の多面性や自分本位な曲解、歪んだ恋愛感情。多くのフラストレーションをそのままにして、物語は潔く終了してしまうのである。

#07_重松清「流星ワゴン」

死んじゃってもいいかなあ、もう……。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして―自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか―?「本の雑誌」年間ベスト1に輝いた傑作。

流星ワゴン (講談社文庫)

流星ワゴン (講談社文庫)


 優しくて少し痛い、父と息子の話だった。
 大人なら誰でもひとつふたつ思い当たる、ちいさな後悔。そのちいさな後悔が少しずつ蓄積されて、いつの間にか大きく道を違ってしまうのかもしれない。そのときは、自分なりに最善を尽くしたつもりだったのに…。この小説は、そんな後悔を一つずつ“やり直して”いく物語である。
人生は自分次第でいつでも変えられる−。使い古された言葉だが、そう思える作品だった。

 永田一雄は、死んでもいいかなと思っていた。死にたい、ではなく死んでもいい。これは、同じように聞こえて全く違う意味の言葉だ。積極的に人生を終わらせてしまいたい訳ではないのだが、この先の人生に対する希望は一切ない。これからの自分に良い未来が待ち受けているはずがない、という絶望に似た状態。ともすれば、「死にたい」と願うよりもネガティブな考え方かもしれない。
 妻は外泊ばかりで家に寄り付かなくなり、中学生の一人息子は不登校状態で、家庭内暴力はひどくなる一方。もう死んでもいいと考えていた折、一台のワゴン車に導かれる。その運転席と助手席には、五年前に交通事故死した父子が座っていた。主人公の永田一雄と、病院で危篤状態にある父親の忠雄。一雄と、息子の広樹。そして不思議なワゴンを運転する、橋本義明と息子の健太。この物語は、三組の父と息子それぞれの後悔を描いている。

 ワゴンに乗って夜のドライブを続け、やがて朝がくると一雄は「たいせつな場所」へ行くことになる。たいせつ、とは人生の分岐点の事で、つまりは後悔の残る過去の記憶である。家族がバラバラになってしまったあとだから分かるウィークポイントを「やり直す」ことになるのだ。本編中でも引き合いに出されているが、映画「バックトゥーザフューチャー」の設定に似ている。しかし決定的に違うのは、あくまで“タイムスリップ”ではなく“やり直し”というところにある。やり直しの世界は現実とは少し別のもので、たとえやり直しの世界で何らかのアクションを起こしたり、人と関わりを持ったとしても、それは現実の世界に反映されることはなく、人の記憶にも残らないらしい。
 いくらやり直しても、現実の世界で家族が幸福に転じる訳ではない。では、なぜやり直さなければならないのか。
 それはきっと、一雄本人だけのためなのだ。「あの時こうしていれば」という後悔を、実際に実行してみる。少しの行動で今を変えることが出来たかもしれないという、いわば確認作業である。一雄は合計三回、やり直しの世界へ行くことになる。後悔とは生きている限りどんどん増えて蓄積されていくものだが、逆に言えばそれは、未来を変えることの出来る分岐点は生きている限り何度でもあるということなのだ。「たいせつな場所」へ行くことは、一雄にそのことを教えたのではないかと思う。

 やり直しの世界では何故か、一雄と同い歳である三十八歳の父親と出会う。父親の忠雄は自分の事を「チュウさん」と呼ばせ、一雄を朋輩だと言う。不仲になる前の、幼い自分しか知らない父との対面。一雄にとって、現実の父親と三十八歳の「チュウさん」のイメージは微妙に異なり、同一人物とは思い難かった。
 当たり前の事だが、親と子の年齢差は永遠に縮まらない。子は常に下から見上げる格好になるので気付きにくいが、親もまた子供との付き合い方に悩んだり迷ったりしながら少しずつ、「親」として形成されていくものなのかもしれない。同い歳の親とは、まだ自分の知る親になる過程の状態であり、その分印象がかけ離れて感じるのだろう。
「どんなに仲の悪い親子でも、同い歳で出会えたら、絶対に友だちになれるのにね」
責任感や上下関係を排除して、人間同士として親と子が向き合えたとしたら、きっと分かりあえないはずはない…ということだろうか。どんな確執があったとしても、心の底から嫌いあっている親子などいないのだから―。

 大嫌いになるはずの父親であるチュウさんとの交流、そして五年前に死んでしまった橋本親子のお互いを思いやる気持ちにふれて、やがて一雄は生きる意欲を取り戻していく。ワゴンを降りて帰った現実の世界では、家族は最悪の状態のままであった。それでも一雄は、今度は“やり直し”ではなく、今この瞬間から未来を“変える”べく、新しい一歩を踏み出し始める。
 都合良くまとまり過ぎておらず、しかしながら希望ある将来を予感させることが出来る。丁度良いバランスの結末だと感じた。

 ただ一つ言うとすれば、健太が成仏する、しないのシーンは、よく分からなかった。父親は自分の事を忘れて成仏することが息子の幸せだと信じているが、息子は父と離れたくないと思っている。健太が意図的に父の元へ戻ると決めたのか、父と一緒に居たいという思いが未練となって成仏できなかったのか。そこは判然としないし、ずっと健太が成仏して生まれ変わることだけを願っていた様子の父が、戻ってきた息子をあっさりと受け入れてしまうのもなんだか腑に落ちない。親子の愛情は感じたし、そこは感動的なのだが、「うーん…コレでいいのかなぁ」と釈然としないものが残ってしまった。

 程度の違いはあれ、どんな人でも感動出来る作品だと感じた。文体も読みやすく、親子というテーマも取っ付きやすい。もし両親が読んだらどんな感想を持つのだろう?と、少し想像した。

#06_久保田健彦「ブラック・ジャック・キッド」

俺の夢はあの国民的裏ヒーロー、ブラック・ジャック。黒いレインコートを羽織り(真夏でも)、床屋では店主も首を傾げるギザギザカットをオーダー、顔にトレードマークの傷をつけようとした時は怒られたけど(しかも失敗)、日々努力を重ねてる。でも母親が出て行っちゃったり、俺の人生けっこう大変―独特のユーモアと素直な文体で、いつかの童心がよみがえる、青春小説の傑作。

ブラック・ジャック・キッド (新潮文庫)

ブラック・ジャック・キッド (新潮文庫)



 第19回 日本ファンタジーノベル大賞 優秀賞受賞作品。「ファンタジー」と聞くと私は、魔法や超能力、モンスター、異世界・・・など、どちらかと言えばポジティブなイメージを抱く。国語辞典を引くと[幻想的・夢幻的な文学作品]とある。「幻想」「夢幻」とは、いかにも煌びやかな響きである。
 しかし本作は、まったく煌びやかな作品ではない。淡々とした口語体で綴られる日常風景はどこまでも現実的であり、主人公の少年も決して幸福な境遇ではない。もちろんファンタジーの要素は含まれているが、それはあくまでも自然に、リアリティな部分の一要素として描かれるに過ぎない。

 小学四年生の織田和也は憧れのブラックジャックになるべく、黒いマントをまとい髪の毛を左右非対称に伸ばし、メスの代わりにドライバーを投げる練習に勤しむ毎日を送る。女子とはいつも衝突してしまうが、中の良い男友達とふざけ合うのは楽しい。しかし母親が家を出て行ってしまってからは、今までと同じようにはいかなくなった。新しい学校での日々、いじめ、不思議な友達、初恋。様々な出会いと体験の中で、少年はアイデンティティを見つけていく。

 ブラック・ジャックになりたかった。ブラック・ジャックのように、じゃなく、本当にブラック・ジャックになりたかったのだ。
 このような冒頭分から物語は始まる。
 本作はエピソードごとに小さな章に分けられており、それぞれにタイトルがつけられているが、大きく見ると3つのパートに分けることができる。前半パートが、和也がブラック・ジャックの扮装をするようになった経緯の説明と、江淵小学校での出来事を綴った部分であり、ラストで母親が家を出て行く。中盤パートは父と二人で暮らすようになり、転校先の森塚小学校に馴染めず、河原で出会った不思議な少女との交流を描いた場面。この作品の「ファンタジー」たる所以は、この部分に集約されている。後半パートでは、森塚小学校で初めてできた二人の友達との交流、そして初恋が描かれている。
 ページ数で言えば後半パートが圧倒的に多いのだが、そこに辿り着くための序章として前・中パートがある訳ではなく、すべて並列的に語られているように思う。
 
 前半部分の大きな山場は、母親と小旅行をするシーンである。ある日の平日に和也が目を覚ますと、いつもなら仕事に行っているはずの母親が家におり、学校をさぼって出かけようと言いだす。このなかで、母親がブラック・ジャックの中での好きなエピソードについて語る場面がある。それは和也曰く「台風による停電という最悪の状況の中で、手術に苦闘するブラック・ジャックと並行して、崩壊していく家を守ろうとするピノコの姿が描かれる」ストーリーらしい。
「最後にね、なんにもなくなった家に朝日が射して、二人でおままごとみたいにむきあって、お茶を飲むの。あれ見たらお母さん、泣きそうになっちゃって」
この小説は終始和也による回想という形に徹しており、母親が家を出た理由についてはっきりした記述はなされない。しかし、この場面で母親は「ピノコ」に自分の姿を重ねていたのではないだろうか。あるいは、ブラック・ジャックとお互いに固く信頼し合うからこそ強く生きられるピノコの事を、羨ましく感じていたのかもしれない。真相はわからないが、母親が自らの感情を吐露するのはこの場面だけであり、二日後に家を出て行くきりである。
 中盤部分では、めぐみという謎の少女と出会う。もっとも「めぐみ」という名前も和也が付けた呼び名であり、和也自身は「クロオ」(ブラック・ジャックの本名)と名乗っている。この少女は不思議な能力を有しており、待ち合わせをしていなくても和也が出向くとすぐに姿を見せたり、物を消失させたりすることが出来た。途中和也が幽霊ではないかと尋ねるが、めぐみは自分が過去に死んだことを認めつつも、幽霊ではないと否定する。この章のタイトルは「死神と一緒」。転校先の小学校で和也は、その黒ずくめの服装から「死神」とあだ名を付けられていた。なので一見すると「死神」とは和也のことのように思える。しかしこのタイトルには実は二重の意味があり、めぐみは死神と呼ばれる存在なのではないか…と私は推察する。
 全体の約半分を占めるのが後半のパートであるが、ここでは二人の人物が登場する。夏休みに児童館の図書室で出会ったクラスメイトの「宮内」と「泉」がその二人であり、ここから物語のラストまでずっと、和也を含めた三人でのエピソードが描かれることとなる。
 宮内は内向的で少し頼りない少年であるが、大好きな少女マンガに関しては確固たる信念を持っており、それを臆せず主張することの出来る強い一面も持ち合わせている。泉は本を読むのが大好きであり、頭も良くて大人びている。和也はやがて泉へ恋心を抱くようになり、荒みがちだった心が段々と和らいでいく。
 このパートの終盤に、最大の見せ場がある。姿を消した泉の弟を探して和也達三人はクリスマスの夜に小さな冒険をするのだが、最後に見つけ出した弟に名前を聞かれ、「織田和也」と本名を名乗る。
ブラック・ジャックは世界に一人しかいないし、おれもそうだ。
ブラック・ジャック「に」なりたかったという冒頭から始まり、めぐみにはクロオと名乗った和也が、最後に初めて自分自身を見つめる。様々な経験を経て少しだけ大人になった和也を象徴させるシーンである。派手ではないが、この物語にふさわしい、ドラマチックなラストだと思う。
 
 全体を通して感じるのは、文体がどこか温かいことだ。小学生当時を回想する“現在の”和也は結婚しており、娘がいるということが最後に明かされる。幸福な未来から語られるからこそ、辛い境遇の話であってもスラスラと読みやすいのかもしれない。
 もちろん明るい話ではないが、痛すぎない。少年の成長を描いた、とても素直な小説であった。

#05_万城目学「鴨川ホルモー」

このごろ都にはやるもの、せた新入生、文句に誘われノコノコと、出向いた先で見たものは、世にも華麗な女(鼻)でした。このごろ都にはやるもの、協定、合戦、片思い。祇園祭宵山に、待ち構えるは、いざ「ホルモー」。「ホルモン」ではない、是れ「ホルモー」。戦いのときは訪れて、大路小路にときの声。恋に、戦に、チョンマゲに勧誘、貧乏、一目ぼれ。葵祭の帰り道、ふと渡されたビラ一枚。腹を空か、若者たちは闊歩して、魑魅魍魎は跋扈する。京都の街に巻き起こる、疾風怒涛の狂乱絵巻。都大路に鳴り響く、伝説誕生のファンファーレ。前代未聞の娯楽大作、碁盤の目をした夢芝居。「鴨川ホルモー」ここにあり!!

鴨川ホルモー (角川文庫)

鴨川ホルモー (角川文庫)

 万城目学、二作目です。「プリンセス・トヨトミ」が面白かったので、では次はデビュー作!と思い、手に取った。
 そもそもタイトルからしていきなり意味深だが、「ホルモー」とは何か。冒頭部分でまず、その説明がなされる。曰く「ホルモー」とは、一種の競技の名前である。主人公は二浪の末に京都大学へ入学したばかりの男子大学生であり、コンパで一目惚れした女性に会いたいが為に参加していたサークル活動を通じて、徐々に「ホルモー」の世界へと足を踏み入れていく。
 よくある青春スポ根もの、という設定だが、いかんせん話の主軸を担う競技自体が得体のしれない「ホルモー」。何だソレ!と面喰うが、よく考えてみれば、誰も知らない競技が題材の小説というのは、なまじルールを認識しているバスケットボールやサッカーよりもよほど対等であるような気もする。それに重要なのは「ホルモー」の内容云々ではなく、登場人物達がそれに必死に取り組んでいる、という点なのだ。

 主人公・安倍がサークル「京大青竜会」のビラを受け取るところから、物語はスタートする。このサークルこそがホルモーを行うチームなのだが、安倍はそれとは知らずに入部してしまう。「ホルモー」が当たり前に存在する世界の話ではなく、得体のしれない競技について、主人公と一緒に読者も徐々に理解していくという形式である。
 この安倍という男、好きな女性に会いたいという動機だけで訳のわからない特訓や儀式も受け入れてしまう、なんとも柔軟性の高い人物なのだ。というよりも、思慮に欠けるというべきか。そもそもホルモーとは鬼や式神と呼ばれる類のものを使役して戦わせる競技なのだが、その「オニ」が見えるようになるには一定の訓練を積まなければならない…らしい。当然安倍もオニが見えるようになるまではその存在に否定的なスタンスをとってはいるが、意味が分からない、時間の無駄だと口では言いつつも、「早良さん(一目惚れの相手)に会えるから、まあ何でもいいか」と全てなし崩し的に受け入れてしまう。バカである。でも、単純だからこそ応援したくなるというものだ。

 安倍が当初は煙たく感じながらも、最終的には唯一無二の親友になる男として登場するのが高村という人物である。帰国子女であるが故に少し感覚がズレているのだが、彼がなかなか面白い。他の人物が何かしらの打算的な考えを持ってサークル活動しているのに対して、高村だけは真剣にホルモーに取り組んでいる。友人の恋の悩みには真剣に耳を傾け、何に対しても真摯な態度で向き合う。その見た目がダサい服装にちょんまげ頭という所が笑いを誘うが、中身は真面目で良い奴なのだ。ともすればバカバカしいだけになってしまいそうなストーリーを半ば強引に青春路線へと引っ張っているのは、高村というキャラクターの功績が大きいと私は思う。

 この物語で大きな要素を占めているのは、実は恋模様である。安倍、早良さん、サークル一のイケメンでありホルモーでも天才的な手腕を発揮する「芦屋」、そしてもう一人、後半にかけて大変重要な役割を果たすこととなる「楠木ふみ」。やっていることは奇想天外だが、動機となっているはこの四人のありふれた恋愛感情にすぎない。片思いや嫉妬、失恋。大学生である彼らを突き動かすのは何よりも恋、というのは自然な気がするし、可愛らしくもある。少し面映ゆく思いながらも、成就を願って一喜一憂する、というのが青春小説の醍醐味なのだ。

 舞台設定である京都の町は、それだけでエキゾチックな何かを思わせる独特の雰囲気がある。ホルモーに関する様々な名称や事柄は陰陽道に由来している、などと設定が妙にリアルであるため、読み進めるうちに段々「知らないだけで、京都ではこんな不思議な何かが存在しているのかもしれない」と感じるようになってくるから面白い。ホルモーなるものの存在を本気で信じる訳ではもちろんないが、少なくとも「あったら楽しそうだ」とは思う。謎めいた競技に真摯に取り組む若者の姿は、滑稽ながらも、大変に魅力的であるということだ。
 相当ばかばかしい、だけどなぜか少しだけ憧れてしまう。ひとつだけ言えるのは、「鴨川ホルモー」がとても愉快な小説だということだ。

 しかし…森見登美彦の数々の作品に、この「鴨川ホルモー」。読めば読むほど、京都に行きたい衝動に駆られてしまう。小説片手に街中を散策するもの楽しそうだ。

#04_山下貴光「有言実行くらぶ」

憂鬱で退屈な学校で、次々と掲示板に貼り出された謎のメッセージ。不可能と思われた「犯行予告」だが、確実に実行されてゆく。一体犯人は何者なのか?目的は?表題作のほか「イヌとネコの暇つぶし」「天使の条件」「幸福の呪文」「子イヌ」を収録。イヌ、ネコ、カメが巻き起こす爽快学園ストーリー。

有言実行くらぶ (文芸社文庫 や 1-1)

有言実行くらぶ (文芸社文庫 や 1-1)

 本屋をフラフラ歩いていて、なんとなく目に付いた文庫本をそのままレジへ持って行くことがしばしばある。大方は表紙の絵や帯のアオリ文が気になって手に取るのだが、この本に関してはタイトルに惹かれた。「有言実行」という四字熟語とひらがな表記の「くらぶ」の組み合わせに、なんとなくノスタルジックな雰囲気を感じて購入。結論から言えば、違ったのだが。

 ごく平凡、どちらかといえばさえない方である主人公の亀井カズキ(カメ)が、スマートで柔和な猫沢ハジメ(ネコ)、無骨で男らしい犬崎タダシ(イヌ)という二人の少し変わった上級生と出会うところから、物語りは始まる。短編集の形式を取っており、第一話の『イヌとネコの暇つぶし』で三人が出会い、続く『天使の条件』表題作『有言実行くらぶ』『幸福の呪文』で、高校生活のなかで出会う様々な出来事をそれぞれ描いている。最後の『子イヌ』は番外編、イヌの小学生時代を描いた「エピソード0」的なストーリーだ。

 短編という特性上、一つ一つの話は大変あっさりしている。主人公たちが高校生なので物語の舞台は学校やその周辺に限られるし、登場人物も学生や教師がほとんど。番外編を除く四編は、日常の中で出会うちょっとした事件に三人が関わっていく…という流れなのだが、どの話もあっと言う間に解決してしまう。ネコの明晰な頭脳とイヌの行動力が光るが、二人が活躍すればするほど、主人公であるカメは影が薄くなってしまう。二人の行動を俯瞰で眺めている、という雰囲気のキャラクターでもないので、もう少しカメが活躍するシーンがあっても良かったように思う。
 第四話『幸福の呪文』では、カメが地味で目立たない存在であると非難され、愉快な奴だから一緒にいるのだとイヌが反論する場面が描かれている。全編を通して一つの核心ともいうべきシーンであるが、カメの「愉快」な部分がもっと多く表現されていれば、より説得力が生まれたように感じる。物語の中で彼らはお互いの良さを十分に理解しあっているが、第三者(読者)にそれが伝わるまでには、もう少しページが必要なのかもしれない。

 番外編『子イヌ』はイヌの小学生時代を、当時の同級生であり現在はカメ達三人が通う高校の生徒会副会長、という「ミナコ」が回想する形で展開する。イヌの過去の話ではあるが主人公はミナコであり、高校生になったイヌとの関連性も特にない為、番外編だけでも支障なく読めてしまう。
 両親の不仲が原因で自然な笑顔がつくれなくなった小学生のミナコは、徐々に女の子達の輪から外れてしまい、クラスメイトであるイヌとその親友の「シュウ」がミナコを笑わそうと画策する…というストーリー。
 些細なことで仲間はずれが起きたり誤解されたりと、小学生の頃に誰しもが経験した感覚であると思うが、この番外編ではそれが見事に表現されている。あくまでも本筋から外れているのでライトに書かれてはいるが、私としては、この本の中で最も読み応えがあると感じた。会話の内容や行動も小学生らしくて可愛いし、前向きなラストは爽やかである。

 ネコ、イヌ、カメ。三人の取り合わせが好きになってきた頃に物語は終わってしまうので、少し物足りなくて残念である。彼らが活躍する長編小説も読んでみたい気がした。

 最後に、本文中のセリフより。
「有言実行なんていう言葉は存在しない。不言実行という言葉を参考にした、造語だよ。」
 私はコレ、知らなかった。すぐさま電子辞書を引いてみると、確かに「不言実行」しか出てこない。意味は「あれこれ言わず、黙って(善いと信ずるところを)実行すること。」
 小説の中でこういった知識に出会うと、なぜだか忘れない。ひとつ勉強になった。

#03_万城目学「プリンセス・トヨトミ」

このことは誰も知らない―四百年の長きにわたる歴史の封印を解いたのは、東京から来た会計検査院の調査官三人と大阪下町育ちの少年少女だった。秘密の扉が開くとき、大阪が全停止する!?万城目ワールド真骨頂、驚天動地のエンターテインメント、ついに始動。

プリンセス・トヨトミ (文春文庫)

プリンセス・トヨトミ (文春文庫)



 万城目学がずっと気になっていた。というのも、「森見登美彦が好きなのであれば、万城目学も一読あれ」的な一文を、よく目にするからである(その逆もしかり)。話題作が多い作家ではあるが、映画公開中でタイムリーなこちらをチョイスした。

 映画公開による番組宣伝やCM映像によって多少の予備知識を持った状態で読み始めたが、だからこそ余計に、驚いた。そこそこページのボリュームがあるのだが、それをまったく感じさせず、最後までワクワクしながら読むことが出来る。そして意外なことにも、思いのほか感動する。「大阪が独立国」「豊臣の末裔」というキーワードだけを耳にしつつ読み始めた為、奇をてらった設定の奇想天外な話を想像していた私としては、カナリ面食らった。もちろん設定自体は突飛でありえないのだが、ストーリーの面白さが決して設定に負けていない。

 会計検査院の第六局に在籍する調査官の松平、鳥居、旭の三人が大阪へ実地調査へ訪れるところから物語りはスタートする。まず、この3人のキャラクターがいちいち特徴的なのである。副長であり三人の中で年長者にあたる松平は、スマートでハンサムな、仕事人間のカッコいい中年…というよくある「デキる」上司像なのだが、なぜか大のアイスクリーム好きという設定。いきなりソフトクリームを食べながら登場し、物語の中でも終始アイスを食べ続ける。
「最近は一日にどれくらいアイスを食べるんですか?」「五個」「少し減りましたね」
だそうだ。こんな可愛いおじさんを、嫌いになれるはずがない。冷静沈着で頭脳明晰(国家公務員試験トップ合格という経歴の持ち主!)という設定だからこそ、余計にギャップが楽しい。
 その松平と行動を共にする部下の鳥居と旭・ゲーンズブールも、相当面白い。身長が低くて小太りの鳥居は、仕事よりも無駄口を叩くことに余念がないお調子者だが、時々物凄い引きの強さを見せることがあり「ミラクル鳥居」と呼ばれている男。道を歩けば迷うし、新幹線の切符は毎回無くすが、あまりにもわかりやすい性格は見ていて微笑ましい。「ダメだけど憎めない奴」の代表選手、といった所か。対する旭・ゲーンズブールは三人の中では最も経験の浅い新人だが、仕事を完璧にこなすだけでなく、町を歩けば誰もが振り返る端麗な容姿の持ち主で、およそけなす所が見つからないパーフェクトな女性である。その自信に裏づけされた歯に衣着せぬ物言いが特徴的だが、優秀な部下に嫉妬心むき出しの鳥居との掛け合いは思わず笑ってしまう。
 会計検査院の面々を迎え撃つ形になるのが大阪の人間だが、こちらも個性たっぷりの人々が登場する。女の子になりたいと願う少年・真田大輔と、その幼馴染の少女・橋場茶子が話の中核を担うが、性同一性障害やいじめといった重いテーマにもかかわらず、それほど暗くなりすぎずに描いている。それは茶子の突き抜けた性格によるところも大きいが、大輔の方も弱気な性格ながらに信念を貫く堂々とした姿勢と周囲を思いやる優しさは、好感が持てるし応援したくなる。なにより、いかにも大阪人!といった雰囲気のコテコテの関西弁や冗談交じりの会話がストーリーのテンポを良くし、全体をライトにしている。もっとも私は大阪に住んだことはないので、大阪の方が読んだ場合に同じ印象を受けるのかは分からないが。

↓以下ネタバレ

 突然「大阪国内閣総理大臣」である父・幸一に、大阪城の地下に建設された国会議事堂へ案内される形で、「大阪国」と豊臣家の末裔…すなわち「王女」の存在が明かされる。王女の正体は少し後から分かるのだが、これは予想どおり茶子。予想、というか他に該当しそうな人物がいない為、あえて勿体つける理由も分からない。
 大輔がセーラー服で登校したのをきっかけに暴力団組長の息子である蜂須賀からいじめを受けるようになり、茶子が報復を企てるところから行き違いが起こる。ここから検査員達のパートと中学生達のパートがリンクし、一気にストーリーが展開し始めるのだが、ここでは時系列が工夫されている。はじめに幸一から松平へ「立ち上がる」と宣言する電話のシーンを描いた後で前日へ遡ることにより、松平、幸一、鳥居、大輔とそれぞれの動きが大変分かりやすい。何があったんだ!?という謎解き的な面白みも生まれている。

 大阪国が「合図」をきっかけに立ち上がる場面も面白い。直接ストーリーに関係のない「国民」達の行動にページを割いているので、臨場感があってワクワクした。余談であるが、ディズニー映画「101」で犬たちが遠吠えを連鎖させながら遠くの町にピンチを伝える…というシーンを思い出した。

 集結した大阪国民の前で幸一と松平が対面する場面は、クライマックスに相応しく見ごたえがある。松平のカッコ良さが光るシーンである。どのようにも転がる可能性があるので、ハラハラ出来るし、結末も個人的には好きだ。大阪国民が必死に守っているものとは何なのか―というのが最大のテーマであろうが、松平の父との複線が繋がった時には少なからず感動した。馬鹿馬鹿しいほどに大げさな形で継承されてきたのは、結局、父と息子の絆。驚きのオチが用意されているよりも、余程納得できた。実際にはあり得ない話である以上、「こうだったら素敵だな」と思わせる終結を見せるべきだと、私は思う。

 旭による真相の告白は「ふぅん」という感じ。特に以外でもないし蛇足という気がしないでもないが、疑問を残すのも良くないので、まぁこんなもんか。ただ、府警にいる鳥居を迎えにいくシーン、これは笑った。最後の最後に、旭さんが大好きになった。
 ちなみに現在公開中の映画では、調査官の鳥居と旭の役柄が男女入れ替わっているらしい。鳥居は綾瀬はるか、旭は岡田将生が演じている。

 突飛な設定によるフィクションであるのはもちろんだが、ストーリーの本質は温かくて優しい絆の物語。ワクワクドキドキしながら読めるので、退屈している人には是非ともおすすめしたい一作である。

 万城目学、かなり気になってきた。次は「鴨川ホルモー」あたりを読んでみようと思う。