#07_重松清「流星ワゴン」

死んじゃってもいいかなあ、もう……。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして―自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか―?「本の雑誌」年間ベスト1に輝いた傑作。

流星ワゴン (講談社文庫)

流星ワゴン (講談社文庫)


 優しくて少し痛い、父と息子の話だった。
 大人なら誰でもひとつふたつ思い当たる、ちいさな後悔。そのちいさな後悔が少しずつ蓄積されて、いつの間にか大きく道を違ってしまうのかもしれない。そのときは、自分なりに最善を尽くしたつもりだったのに…。この小説は、そんな後悔を一つずつ“やり直して”いく物語である。
人生は自分次第でいつでも変えられる−。使い古された言葉だが、そう思える作品だった。

 永田一雄は、死んでもいいかなと思っていた。死にたい、ではなく死んでもいい。これは、同じように聞こえて全く違う意味の言葉だ。積極的に人生を終わらせてしまいたい訳ではないのだが、この先の人生に対する希望は一切ない。これからの自分に良い未来が待ち受けているはずがない、という絶望に似た状態。ともすれば、「死にたい」と願うよりもネガティブな考え方かもしれない。
 妻は外泊ばかりで家に寄り付かなくなり、中学生の一人息子は不登校状態で、家庭内暴力はひどくなる一方。もう死んでもいいと考えていた折、一台のワゴン車に導かれる。その運転席と助手席には、五年前に交通事故死した父子が座っていた。主人公の永田一雄と、病院で危篤状態にある父親の忠雄。一雄と、息子の広樹。そして不思議なワゴンを運転する、橋本義明と息子の健太。この物語は、三組の父と息子それぞれの後悔を描いている。

 ワゴンに乗って夜のドライブを続け、やがて朝がくると一雄は「たいせつな場所」へ行くことになる。たいせつ、とは人生の分岐点の事で、つまりは後悔の残る過去の記憶である。家族がバラバラになってしまったあとだから分かるウィークポイントを「やり直す」ことになるのだ。本編中でも引き合いに出されているが、映画「バックトゥーザフューチャー」の設定に似ている。しかし決定的に違うのは、あくまで“タイムスリップ”ではなく“やり直し”というところにある。やり直しの世界は現実とは少し別のもので、たとえやり直しの世界で何らかのアクションを起こしたり、人と関わりを持ったとしても、それは現実の世界に反映されることはなく、人の記憶にも残らないらしい。
 いくらやり直しても、現実の世界で家族が幸福に転じる訳ではない。では、なぜやり直さなければならないのか。
 それはきっと、一雄本人だけのためなのだ。「あの時こうしていれば」という後悔を、実際に実行してみる。少しの行動で今を変えることが出来たかもしれないという、いわば確認作業である。一雄は合計三回、やり直しの世界へ行くことになる。後悔とは生きている限りどんどん増えて蓄積されていくものだが、逆に言えばそれは、未来を変えることの出来る分岐点は生きている限り何度でもあるということなのだ。「たいせつな場所」へ行くことは、一雄にそのことを教えたのではないかと思う。

 やり直しの世界では何故か、一雄と同い歳である三十八歳の父親と出会う。父親の忠雄は自分の事を「チュウさん」と呼ばせ、一雄を朋輩だと言う。不仲になる前の、幼い自分しか知らない父との対面。一雄にとって、現実の父親と三十八歳の「チュウさん」のイメージは微妙に異なり、同一人物とは思い難かった。
 当たり前の事だが、親と子の年齢差は永遠に縮まらない。子は常に下から見上げる格好になるので気付きにくいが、親もまた子供との付き合い方に悩んだり迷ったりしながら少しずつ、「親」として形成されていくものなのかもしれない。同い歳の親とは、まだ自分の知る親になる過程の状態であり、その分印象がかけ離れて感じるのだろう。
「どんなに仲の悪い親子でも、同い歳で出会えたら、絶対に友だちになれるのにね」
責任感や上下関係を排除して、人間同士として親と子が向き合えたとしたら、きっと分かりあえないはずはない…ということだろうか。どんな確執があったとしても、心の底から嫌いあっている親子などいないのだから―。

 大嫌いになるはずの父親であるチュウさんとの交流、そして五年前に死んでしまった橋本親子のお互いを思いやる気持ちにふれて、やがて一雄は生きる意欲を取り戻していく。ワゴンを降りて帰った現実の世界では、家族は最悪の状態のままであった。それでも一雄は、今度は“やり直し”ではなく、今この瞬間から未来を“変える”べく、新しい一歩を踏み出し始める。
 都合良くまとまり過ぎておらず、しかしながら希望ある将来を予感させることが出来る。丁度良いバランスの結末だと感じた。

 ただ一つ言うとすれば、健太が成仏する、しないのシーンは、よく分からなかった。父親は自分の事を忘れて成仏することが息子の幸せだと信じているが、息子は父と離れたくないと思っている。健太が意図的に父の元へ戻ると決めたのか、父と一緒に居たいという思いが未練となって成仏できなかったのか。そこは判然としないし、ずっと健太が成仏して生まれ変わることだけを願っていた様子の父が、戻ってきた息子をあっさりと受け入れてしまうのもなんだか腑に落ちない。親子の愛情は感じたし、そこは感動的なのだが、「うーん…コレでいいのかなぁ」と釈然としないものが残ってしまった。

 程度の違いはあれ、どんな人でも感動出来る作品だと感じた。文体も読みやすく、親子というテーマも取っ付きやすい。もし両親が読んだらどんな感想を持つのだろう?と、少し想像した。