#06_久保田健彦「ブラック・ジャック・キッド」

俺の夢はあの国民的裏ヒーロー、ブラック・ジャック。黒いレインコートを羽織り(真夏でも)、床屋では店主も首を傾げるギザギザカットをオーダー、顔にトレードマークの傷をつけようとした時は怒られたけど(しかも失敗)、日々努力を重ねてる。でも母親が出て行っちゃったり、俺の人生けっこう大変―独特のユーモアと素直な文体で、いつかの童心がよみがえる、青春小説の傑作。

ブラック・ジャック・キッド (新潮文庫)

ブラック・ジャック・キッド (新潮文庫)



 第19回 日本ファンタジーノベル大賞 優秀賞受賞作品。「ファンタジー」と聞くと私は、魔法や超能力、モンスター、異世界・・・など、どちらかと言えばポジティブなイメージを抱く。国語辞典を引くと[幻想的・夢幻的な文学作品]とある。「幻想」「夢幻」とは、いかにも煌びやかな響きである。
 しかし本作は、まったく煌びやかな作品ではない。淡々とした口語体で綴られる日常風景はどこまでも現実的であり、主人公の少年も決して幸福な境遇ではない。もちろんファンタジーの要素は含まれているが、それはあくまでも自然に、リアリティな部分の一要素として描かれるに過ぎない。

 小学四年生の織田和也は憧れのブラックジャックになるべく、黒いマントをまとい髪の毛を左右非対称に伸ばし、メスの代わりにドライバーを投げる練習に勤しむ毎日を送る。女子とはいつも衝突してしまうが、中の良い男友達とふざけ合うのは楽しい。しかし母親が家を出て行ってしまってからは、今までと同じようにはいかなくなった。新しい学校での日々、いじめ、不思議な友達、初恋。様々な出会いと体験の中で、少年はアイデンティティを見つけていく。

 ブラック・ジャックになりたかった。ブラック・ジャックのように、じゃなく、本当にブラック・ジャックになりたかったのだ。
 このような冒頭分から物語は始まる。
 本作はエピソードごとに小さな章に分けられており、それぞれにタイトルがつけられているが、大きく見ると3つのパートに分けることができる。前半パートが、和也がブラック・ジャックの扮装をするようになった経緯の説明と、江淵小学校での出来事を綴った部分であり、ラストで母親が家を出て行く。中盤パートは父と二人で暮らすようになり、転校先の森塚小学校に馴染めず、河原で出会った不思議な少女との交流を描いた場面。この作品の「ファンタジー」たる所以は、この部分に集約されている。後半パートでは、森塚小学校で初めてできた二人の友達との交流、そして初恋が描かれている。
 ページ数で言えば後半パートが圧倒的に多いのだが、そこに辿り着くための序章として前・中パートがある訳ではなく、すべて並列的に語られているように思う。
 
 前半部分の大きな山場は、母親と小旅行をするシーンである。ある日の平日に和也が目を覚ますと、いつもなら仕事に行っているはずの母親が家におり、学校をさぼって出かけようと言いだす。このなかで、母親がブラック・ジャックの中での好きなエピソードについて語る場面がある。それは和也曰く「台風による停電という最悪の状況の中で、手術に苦闘するブラック・ジャックと並行して、崩壊していく家を守ろうとするピノコの姿が描かれる」ストーリーらしい。
「最後にね、なんにもなくなった家に朝日が射して、二人でおままごとみたいにむきあって、お茶を飲むの。あれ見たらお母さん、泣きそうになっちゃって」
この小説は終始和也による回想という形に徹しており、母親が家を出た理由についてはっきりした記述はなされない。しかし、この場面で母親は「ピノコ」に自分の姿を重ねていたのではないだろうか。あるいは、ブラック・ジャックとお互いに固く信頼し合うからこそ強く生きられるピノコの事を、羨ましく感じていたのかもしれない。真相はわからないが、母親が自らの感情を吐露するのはこの場面だけであり、二日後に家を出て行くきりである。
 中盤部分では、めぐみという謎の少女と出会う。もっとも「めぐみ」という名前も和也が付けた呼び名であり、和也自身は「クロオ」(ブラック・ジャックの本名)と名乗っている。この少女は不思議な能力を有しており、待ち合わせをしていなくても和也が出向くとすぐに姿を見せたり、物を消失させたりすることが出来た。途中和也が幽霊ではないかと尋ねるが、めぐみは自分が過去に死んだことを認めつつも、幽霊ではないと否定する。この章のタイトルは「死神と一緒」。転校先の小学校で和也は、その黒ずくめの服装から「死神」とあだ名を付けられていた。なので一見すると「死神」とは和也のことのように思える。しかしこのタイトルには実は二重の意味があり、めぐみは死神と呼ばれる存在なのではないか…と私は推察する。
 全体の約半分を占めるのが後半のパートであるが、ここでは二人の人物が登場する。夏休みに児童館の図書室で出会ったクラスメイトの「宮内」と「泉」がその二人であり、ここから物語のラストまでずっと、和也を含めた三人でのエピソードが描かれることとなる。
 宮内は内向的で少し頼りない少年であるが、大好きな少女マンガに関しては確固たる信念を持っており、それを臆せず主張することの出来る強い一面も持ち合わせている。泉は本を読むのが大好きであり、頭も良くて大人びている。和也はやがて泉へ恋心を抱くようになり、荒みがちだった心が段々と和らいでいく。
 このパートの終盤に、最大の見せ場がある。姿を消した泉の弟を探して和也達三人はクリスマスの夜に小さな冒険をするのだが、最後に見つけ出した弟に名前を聞かれ、「織田和也」と本名を名乗る。
ブラック・ジャックは世界に一人しかいないし、おれもそうだ。
ブラック・ジャック「に」なりたかったという冒頭から始まり、めぐみにはクロオと名乗った和也が、最後に初めて自分自身を見つめる。様々な経験を経て少しだけ大人になった和也を象徴させるシーンである。派手ではないが、この物語にふさわしい、ドラマチックなラストだと思う。
 
 全体を通して感じるのは、文体がどこか温かいことだ。小学生当時を回想する“現在の”和也は結婚しており、娘がいるということが最後に明かされる。幸福な未来から語られるからこそ、辛い境遇の話であってもスラスラと読みやすいのかもしれない。
 もちろん明るい話ではないが、痛すぎない。少年の成長を描いた、とても素直な小説であった。