#28_湊かなえ「少女」

親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。ふたりとも相手には告げずに、それぞれ老人ホームと小児科病棟へボランティアに行く―死の瞬間に立ち合うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー。

少女 (双葉文庫)

少女 (双葉文庫)

 デビュー作『告白』が本屋大賞受賞、メディアミックス化され一躍有名になった湊かなえ。文庫化されてすぐに『告白』を読んだが、あっという間に読み終えてしまい、前評判の通りラストは衝撃的である。明るくも楽しくもない話だったが、爽快さを伴う絶妙なラインの恐怖感でまとまっていた。
 本作はその『告白』に次ぐ、著者二作目の文庫化である。
 ちなみに映画『告白』も国内の各映画賞を総ナメにして話題を呼んだが、こちらはまだ見ていない。少なくとも私の周りでこの映画を見た人から、肯定的な意見を聞いたことが無いのだが…どうなのだろうか。機会があれば見てみたい。

 同級生や恋人がみんな馬鹿に思え、常に自分との温度差を感じている由紀。嫌われないように迫害されないように、周囲と同調することだけを考え自分を殺している敦子。親友同士だったはずの二人は、とある出来事がきっかけで気まずい雰囲気になっていた。そんな折に転校生の紫織から聞かされたのは、一人の少女が自殺した話―。
 私も人が死ぬ瞬間を見てみたい!
 それぞれの過去にほの暗いものを抱えながら、夏休み、二人の少女は「死」を悟るために動きはじめる。

 主人公は高校二年生の少女二人、由紀と敦子。高校の同じクラスに通う二人が交互に語りかける形式で書かれており、同じ出来事が微妙にズレて表現されたり、互いに対する食い違った思いが見え隠れして面白い。夏休みに入ってからは別々の行動を取るので二つのパートを同時進行で交互に追っていく形となるが、終盤にはまた一つとなり、大きな流れとなって怒涛のラストに向かう―という構造である。
 パート転換の前には飽きさせないような“引き”があり、すいすいページが進む。文体は女子高生の口語という性質上どことなく幼さが残っているが、決して「拙い」わけではないので読みやすい。逆に比喩的な表現や詩的な心理描写はほとんど無いので、言葉の意味を素直に飲み込めばよいのである。

 由紀と敦子の二人は、対照的に描かれている。周囲の人間を信用していない…いつ裏切られてもおかしくないと警戒しているようなところは二人ともよく似ているが、それに対する自己防衛の方法が真逆なのだ。由紀は必要以上に他人とは近づかないように、当たり障りのない距離感を保って接する。一方敦子は常に誰かの行動を真似て、とにかく自分一人に周りの目が向くことのないよう気をつける。
 この二人ほど大げさではないにせよ、空気を読みすぎたり孤立を恐れたりする感覚は、かつて女子高生だったことのある者には誰しも覚えがあるのではないだろうか。
「バカで単純なくせに、自分が思っていることこそが、世の中のルールだと思い込んでいる」
まったくその通りである。見た目は成人と変わらない程に成長しても、内面はまだ成長しきれていないのが高校生という年頃ではないか。しかもなまじ大人になりかけている分、自覚と客観にギャップが生じてしまう。
きみたち、とひとまとめにされるのは不本意だが、普段わたしがクラスの子たちに対して思っていることなので、黙って聞いておく。
先ほどのセリフに対する、由紀のモノローグがこうだ。さも自分は違うと言いたげであるが(実際、他の同級生と比較してみれば由紀は精神的に大人っぽい面もあるのだろうが)、結局のところ自らを分析する能力がまだ身についていないに過ぎない。自分自身のことに必死になるあまり、世界と自分が切り離されているような錯覚で生きている。由紀や敦子に限らず、子供は皆そうなのだ。大人は皆、かつてそうだった。だからこそ本作を読んでいると、少女達の身勝手で狂気を含んだような発想にぞっとしないと思いつつも、どこか共感できる部分があるように感じてしまうのである。

↓以下、ネタバレ


 冒頭の遺書は誰のものなのか?…という疑問をしこりとして残しながら、物語は流れていく。「彼女は、ちゃんと自分を持ってる子だった。」という一文(敦子のモノローグと思われる)から由紀の遺書であると錯覚しそうになるが、そのあとすぐに表現された「あたしの親友」に該当する人物の方がおそらく由紀なのだ。では遺書を書いたのは誰なのか。そもそも登場人物の数が少ないので消去法で分かってしまいそうだが、ここはひとまず忘れて読み進めた方が賢明である。結果として遺書の存在自体が由紀と敦子の物語にはそれほど重要ではないし、書いた人物が誰なのかという謎も本題とずれている。結局答えが分かるのは、最後の3ページだ。

 由紀が病院で知り合った少年二人の嘘(入れ替わり)は、まんまと騙される。…というよりも、ヒントが全くない。由紀の一人称という性質上由紀が知らないことは書きようが無いのだろうが、多少は伏線的な描写があっても良かったのではないだろうか。でなければ、小説として必要な仕掛けであったか少々疑問に思えてしまう。

 少年の父親探しが敦子のパートと繋がって、物語の本筋はラストを迎える。しかし本作はそこで終わらず、エピローグにもう一つの山場が用意されているのだ。それが冒頭の遺書に関する種明かしであり、紫織の自殺した親友に関する真相である。終章での由紀・敦子・紫織の会話、そして冒頭と対をなす遺書の後半部分により、怒涛のように事実が明らかとなって伏線が回収されていく。
 確かに様々な事象が繋がりをもって現れる様子はハッとするし、一種の爽快感もある。ただし、二人の主人公のストーリーは前章までで完結しているのだ。終章以降のページはオプションと言うべきか、どうも取って付けたような印象なのである。もちろん、この部分があるからこそ本作が面白いと感じる人もいるだろうし、むしろこちらがメインという見方も出来なくはない。しかしあくまでも本作が青春小説であり、少女達の成長と友情が描かれたテーマなのであるとすれば。紫織とその父親、さらに紫織の親友と教師に関する一連のエピソードは、無くてもよかったのではないかと思ってしまう。

 主題が少々ブレ気味ではあるが、読んでつまらないという訳では決してない。爽やかではないラストも、読後感が悪いことはないのだ。
しかし“学校の裏サイト”といった描写には旬があるように感じるし、読者層も狭いのではないだろうか。私が本作を読み終えた上で、誰にでもおすすめしたいかと言えばそうではなく、5年後10年後にもう一度読みたくなるか聞かれれば大いに疑問だ。
 今このときに読んで「あぁ面白かった」と、そこで完結させておくことにしよう。