#08_清水義範「迷宮」

24歳のOLが、アパートで殺された。猟奇的犯行に世間は震えあがる。この殺人をめぐる犯罪記録、週刊誌報道、手記、供述調書…ひとりの記憶喪失の男が「治療」としてこれら様々な文書を読まされて行く。果たして彼は記憶を取り戻せるのだろうか。そして事件の真相は?言葉を使えば使うほど謎が深まり、闇が濃くなる―言葉は本当に真実を伝えられるのか?!名人級の技巧を駆使して大命題に挑む、スリリングな超異色ミステリー。

迷宮 (集英社文庫)

迷宮 (集英社文庫)


 『治療と言われて文章を読んでいる記憶喪失の男は、何者なのか。』『文章の中で語られる事件の全貌とは?』
読者は二つの疑問を抱えながら、ページを進めることになる。男が治療として読まされる文章に書かれているのは全て、実際に起きた(と説明される)猟奇殺人事件についてである。それは、籐内真奈美という二十四歳のOLが、ストーカーに付きまとわれたあげくに殺害され、性器の部分を切り取って持ち去られるという凄惨なものだった。
 同じ事件を書いてはいるものの、男が読まされる文章は全て違う形式のものである。様々な角度から一つの事件を見るにつれて、徐々に被害者や犯人の印象は変化していく。日増しに男は、自分がこの事件の犯人ではないかと疑念を抱き始める。

 最初に事件のあらましを淡々と説明しておき、日を追うごとに犯人の置かれていた劣悪な家庭環境や、被害者の俗っぽくて打算的な一面が浮き彫りになってくる。
 一見単純なストーカー殺人事件を様々な角度から見ると、徐々に違った印象を受けるようになる。はじめに提示された骨組みが、読み進めるにつれて肉付けされていくようで面白い。
 文庫版の解説では清水義範の文体模倣はもはや、神技の域に達した名人芸、と言わざるを得ない。」と書かれているが、確かにそれぞれの文章はとても一人の作家が書いたものには思えず、違和感なく読むことが出来る。しかしそれ故に「取材記録」の文章などは、句読点の付け方やひらがなと漢字の使い方が大変読みづらく感じた。取材中に録音した内容をテープ起こしした、という設定なのでわざとなのかもしれないが、読んでいるとしばしば突っかかりのような感覚を覚え、集中力を削がれてしまう。

↓以下、ネタバレ

 記憶喪失の男は予想どおり事件の犯人であり、治療と称して文章を読ませ続ける“治療者”の正体は文章を書いた本人である小説家である。これは特に意外な展開でもないのだが、ラストシーンが少しクセがある。
「私は、言葉を失ってしばらく沈黙してしまった。しかし、十秒ほどたって、とうとうたまらず声をたてて、くっく、と笑ってしまった。」
ラスト二行の文章である。
 これは「途中から記憶が回復していたのではないか」と言う問いに対するリアクションなのだ。明確な表現ではないがこの「笑い」からは、やはり記憶が戻っていると捉えるのが妥当であろう。では、一体いつから?読み返してみたのだが、どうやらヒントになるような記述は見当たらない。
 主人公に裏切られる形でラストを迎えるミステリは少なくないが、中でも本作はかなり後味の悪い余韻を残す。ただし「後味が悪い」とは決して悪いばかりの意味ではなく、時を置いてもう一度読んでみようか、と思わせるものだ。
 人間の多面性や自分本位な曲解、歪んだ恋愛感情。多くのフラストレーションをそのままにして、物語は潔く終了してしまうのである。