#22_道尾秀介「ソロモンの犬」

秋内、京也、ひろ子、智佳たち大学生4人の平凡な夏は、まだ幼い友・陽介の死で破られた。飼い犬に引きずられての事故。だが、現場での友人の不可解な言動に疑問を感じた秋内は動物生態学に詳しい間宮助教授に相談に行く。そして予想不可能の結末が…。青春の滑稽さ、悲しみを鮮やかに切り取った、俊英の傑作ミステリー。

ソロモンの犬 (文春文庫)

ソロモンの犬 (文春文庫)

 以前に『ラットマン』を読んで、非常に楽しかった覚えがある。終盤の怒涛の展開では驚かされ、読後感も悪くなかった。
 これに好感触であったので、次に読んだのが『向日葵の咲かない夏』。この作品はかなり衝撃的であった。全体に漂う不気味な雰囲気と、心地悪さ。グロテスクな表現も多く見られるし、読み終えたあとも後味の悪い強烈な印象が残る。しかし、決して嫌いな作品とは言えないのだ。むしろミステリ好きの人には是非お勧めしたく、他者の感想を伺ってみたいと感じた。
 そして道尾秀介作品の三冊目にチョイスしたのが、今回の『ソロモンの犬』である。文庫版カバーの犬の写真が、大変印象的だ。
 これは全くの余談だが、昔『ソロモンの鍵』というファミコンソフトに熱中していたなぁと、ふと思い出してしまった。ちなみに私の実家にあるファミコンは未だ現役である。

 平凡…よりは少しウブだが、どこにでもいるような大学生の秋内静は、友人の京也とその恋人・ひろ子、そして密かに思いを寄せる智佳の四人でよく連れ立って行動していた。突然の雨の日、偶然奇妙な喫茶店に居合わせた四人は、とある日の出来事について語らい始める。それは、彼らの幼い友人が命を落とした日であった―。

 『向日葵の〜』の次に読んだからであろうか、かなり意外な印象を受けた。というのも、非常に爽やかなのである。小学生が不可解な交通事故により死亡し、その原因と真相を解き明かす―といったミステリが主軸だが、それと平行して、主人公を中心とした大学生達の恋愛模様がしっかり描かれているのだ。しかも主人公の秋内は恋愛経験に乏しい純粋な
青年であるので、誰もが過去に経験したような「初恋あるある」的描写が数多く登場して笑いを誘う。先に読んだ二作が陰鬱で重いミステリであったので、そちらとはだいぶ毛色が違う。

 メインキャラクターとなるのは大学生の四人である。京也は冗談好きで軽い雰囲気、その恋人・ひろ子は「女の子らしい」ひかえめな女の子。さらにひろ子の友人であり秋内が好意を寄せる智佳は、常に冷静で笑顔をめったに見せない。
秋内と京也、ひろ子と智佳といったように、男女がそれぞれ対極的に描かれているので、個々の性格はつかみやすい。早い段階でキャラクターの印象が定まるので、中盤に見え隠れする怪しげな言動や挙動がより面白みを持ってくるのだろう。後半に向けて徐々に明らかになる意外な一面も効果的である。

 メインの四人の他に登場するのは主に彼らを取り巻く大人達なのだが、中でも強烈なインパクトを持っているのが間宮未知夫という大学教諭である。狭いアパートにトカゲやヘビなど様々な生物や虫を飼育しており、発言内容はどこか奇妙で不気味である。しかしその「不気味」というのは、ミステリによく見られるような、スリリングな世界観を助長するための不気味さ(横溝正史の『八つ墓村』で「祟りじゃー!」と叫びまわる老婆のように)とは少し違っている。むしろその奇人ぶりにクスッと笑ってしまうような、ユーモラスで可笑しなキャラクターとして登場するのだ。間宮の存在も、この作品をライトで読みやすくする要因の一つであると感じた。
 ちなみに作者名と同音の「ミチオ」という名前が気になるが、解説曰くこのネーミングは作者のジョークであるらしい。動物というキーワードとミチオという名前から、実は『向日葵が〜』のミチオくんが成長した姿なのではとも思ったが、どうやら邪推だったようだ。


↓以下、ネタバレ


 そして最も意外だった点が、間宮未知夫は最終的に探偵役になってしまうのだ。ストーリーのエッセンス的に用意された「イロモノ」キャラかと思いきや、ラストでは主役を食うほどの活躍を見せる。ますます興味深い人物である。

 ストーリーの流れとしては終章で、実は秋内が既に死んでいたという展開になり驚かされる。驚かされ…というよりも、個人的にはかなりガッカリした。一般的に「夢オチ」と呼ばれる“実は全て夢の中の出来事でした”といった趣向の結末にも言えることだが、全ての前提をひっくり返してしまうラストが効果的に機能している小説というのは、私はほとんど出会ったことが無い。奇をてらった結末だけに特化させた短編小説ならいざ知らず、ある程度のページ数を読んだ後に“実は既に死んでいました”とか“全ては妄想だったのです”と言われてしまっては、過去に自分なりの予測や推理を楽しみながら読んできた時間が無駄になってしまったように感じられるのだ。もちろん、意外な展開で面白いと思う読者もいるのであろうが…。
 本作に関しては、事件の真相を中途半端に解決した形で秋内が死んでしまってはあまりにも救いが無いし、三途の川を渡る直前のいわば「走馬灯」を見ているような途中で事件を解き明かす―という構図も苦しく感じた。

 そうであるからエピローグで結局秋内が生きていたと判明したときには、驚くというよりもホッとした。この作品を嫌いにならずに済んで良かった、という安堵である。
 ただ、ラストで思い出したように四人の青春っぽいシーンが詰め込まれているのは、いささか強引に思えてしまった。京也と別れたひろ子の様子が一変する、なんて描写はいかにもありがちではあるのだが。

 ミステリの中に青春小説の要素が盛り込まれ、読みやすくはある。しかし悪く言えば、本筋が定まらない雰囲気もあった。道尾秀介の毒々しくて重い作品も決して嫌いではなかったので、個人的にはそちらのほうが好ましいのかもしれない。

#21_和田竜「小太郎の左腕」

一五五六年。戦国の大名がいまだ未成熟の時代。勢力図を拡大し続ける戸沢家、児玉家の両雄は、もはや開戦を避けられない状態にあった。後に両陣営の命運を握ることになるその少年・小太郎のことなど、知る由もなかった―

小太郎の左腕 (小学館文庫 わ 10-3)

小太郎の左腕 (小学館文庫 わ 10-3)


 文庫化されるのを楽しみに待っていた作品。早速購入し、一気に読んでしまった。
 デビュー作「のぼうの城」がベストセラーとなり、震災の影響で公開延期となっているが映画化もされた。本作はそんな和田竜の三作目である。「のぼう」は、評判に違わず大満足の面白さだった。歴史小説が好きで多く読んできたが、司馬遼太郎山岡荘八に慣れ親しんでいる私にとっては「このような歴史小説があるのだ」と、新鮮な驚きがあった。確かに時代設定は戦国期なのだが、読み味はどこか現代風なのである。言葉使いが読みやすく噛み砕いて表現されていることもあるが、展開も単純に書かれており、混乱しがちな合戦のシーンもイメージしやすかった。
 「のぼう」が良かったので期待した二作目「忍びの国」だが、実はこれは物足りなかったのだ。読む前に期待値を高め過ぎてしまったこともあり、少し拍子抜けである。決して悪くはなかった、面白かったのだが…。エンターテイメント性を出し過ぎて、内容が薄まってしまった印象を受けた。
 さて、別作品の感想が長くなってしまったが、そのような流れを受けての本作「小太郎の左腕」である。今回は読む前にハードルを上げすぎないように、なるべく自然な気持ちで読み始めた。
 しかしこれが、実に面白かったのである。

 戸沢家の重臣である林半右衛門は、敵対する児玉家との戦の中で猛将・花房喜兵衛の槍を受ける。深手を負った半右衛門を山中で出会った猟師が介抱するが、そこで出会った猟師の孫が小太郎という名の少年であった。
 ひと月後、児玉家との戦を前に大規模な鉄砲試合が開催された。武士と農民の区別なく参加できるこの大会に、小太郎が姿を見せる。半右衛門を助けた折に礼として、出場させてもらう約束をしていたのである。通常の鉄砲では取るに足らない結果に終わった小太郎だが、執拗に制止する祖父・要蔵に違和感を覚えた半右衛門はふと、左構えの鉄砲を与えてみる。するとそこで小太郎は、驚くべき才能を発揮したのであった。

 タイトルは「小太郎の左腕」だが、物語の主人公は林半右衛門という武士である。この半右衛門が、実に分かりやすいキャラクターに描かれている。現代人がイメージする侍像そのものと言っても良い。感情表現がストレートで、忠誠心に厚く、武功の為に命を賭して戦う。近習に「坊」呼ばわりされて嫌な顔をするといった可愛い一面もあるが、六尺を超す巨躯を振り回して敵をことごとく打ち倒す様は文句なしに格好良い。主人公が主人公然としていることは、この小説を読みやすいものにしている一つの要因であろう。

 脇を固める登場人物も、それぞれ魅力的だ。敵方の武将である花房喜兵衛は、これも豪快な男であり、半右衛門が唯一その武才を認めている。お互いの首を狙っている存在であるはずながら、時には親友のように会話を交わすこともあり、それが侍の「粋」に感じられる。半右衛門と喜兵衛のシーンは緊張感があり、読み手をグッと引きつける。
 一方で戸沢家当主の甥である図書は、分かりやすいくらいに凡庸だ。何かに付けて半右衛門に食ってかかり、その対抗心が災いして家を滅ぼしかねない危うさすらある。典型的な嫌われ役なのだが、しかし読み進めるに従って、彼なりの苦悩や意外な一面が見えるようになる。終盤のシーンではいつの間にか図書に憐みを感じ、感情移入してしまった。このような所も、上手く出来ていると感じた。

 そして何と言っても小太郎であるが、類まれなる鉄砲の才能と引き換えに、悲しい運命を多く背負った少年である。村のいじめられっ子だった前半と、とあるきっかけで才能を開花させる中盤以降では随分と印象が変化するが、子供らしい口ぶりと優しい性根は一貫している。戦国期に限らず現代においても、他人から抜きん出た才を持つ者は誰でも、何かしらの苦悩を抱えているのかもしれない。しかし小太郎の場合はまだ幼く、もたらされる災厄はいつも他人の勝手な都合によるものなのだ。小太郎の心境を思うと切なく、胸が痛くなる。

 ストーリーは常に半右衛門目線で描かれており、戸沢家と児玉家の抗争に終始しているので分かりやすい。緩急をつけた山場がいくつもあるので飽きさせないし、ドラマチックに仕上がっている。
 しかし本作を読んで改めて感じたが、籠城戦というのは本当に過酷なものである。戦において最も重要なのは兵個人の技量ではなく全体の士気の高さだと言うが、いつ攻め入ってくるかも知れない敵に常に気を張り、終りの知れない日々を城の中で耐え忍ぶことの辛さは想像に難くない。数か月単位で続く籠城戦の間中、兵士達が士気を保つというのは並大抵のことではないだろう。ましてや食糧が底を尽きてしまえば、飢餓も襲ってくる。肉体の衰弱はもちろんのこと、通常の精神状態を保てる人間の方が少ないのではないだろうか。児玉家との籠城戦の折に半右衛門が非情な行動に出たのも、そのような背景があってのことなのかもしれない。
 本作の時代設定は1556年、織田信長が世に名を馳せる少し前である。鉄砲を大々的に使った戦術と言えば、信長が武田勝頼に圧勝した“長篠の戦い”が最初である。以来戦国における戦の形態が大きく変化したと言われるが、これは20年程後の話ということだ。つまりこの頃の戦における鉄砲はまだ脇役であり、槍や刀の補佐的にしか考えられていなかった。絶対数の少なさや弾込めにかかる手間も考えて、おそらく命中率はそれほど良くなかったのだろう。そのような中であるから、確実に的を撃ちぬく小太郎の腕はより魅力的に映り、戦に巻き込まれることになってしまった。鉄砲隊を隊列に配備し、数で圧倒する時代―…あと数十年後の世に生まれていれば、小太郎にはもっと別の生き方があったのかもしれないと思ってしまう。

 全体を通して一つだけ難点を挙げるとすれば、少々説明過多に感じる部分があったことだろうか。「この時代の人間は」とか「当時の武士の考え方では」と言った解説が繰り返され、ややくどい。しかし、時代小説や時代劇に慣れていない読者にとっては親切な解説なのかもしれず、一概に難点と言い切れないのも確かだ。歴史好きにはじれったく感じられてしまうが、万人に満点の評価を受ける小説など無いだろうから仕方ない部分ではある。

以下、ネタバレ

 半右衛門がラストに下す結論は切ないが、他によい選択は無いように思える。小太郎と、なにより自分自身の心を救う為に半右衛門は命を捨てる決意をしたのに違いない。兜に仕込んであった風車には、小太郎と一緒に涙を流してしまった。泣きながらも、最後には止めることを諦めた三十郎も切ない。
 散々戦に翻弄された小太郎だが、せめて静かに、“人並みに”生きられることを願うばかりである。

 「我が名は林半右衛門秋幸。功名漁りの半右衛門とはわしがことじゃ。我が首を挙げ、一生分の飯を稼いでみせよ」
 強い主人公と良いライバル、そして絶対的な才を持つ少年。スピーディーな展開にどんどん引き込まれ、しっかりと感動させる。少年漫画のような印象で読むことが出来るので、仮に歴史小説に抵抗があったとしても、是非一読してみてほしい。
 和田竜の今後にも期待したい所である。

#20_恩田陸「ドミノ」

一億円の契約書を待つ締め切り直前のオフィス、下剤を盛られた子役、別れを画策する青年実業家、待ち合わせの場所に行き着けない老人、警察のOBたち、それに……。真夏の東京駅、28人の登場人物はそれぞれに、何かが起きるのを待っていた。迫りくるタイムリミット、もつれあう人々、見知らぬ者同士がすれ違うその一瞬、運命のドミノが倒れてゆく!抱腹絶倒、スピード感溢れるパニックコメディの大傑作!!

ドミノ (角川文庫)

ドミノ (角川文庫)


 飛行機移動のお供に、楽しく読めそうな小説をと思い選んだ一冊。裏の紹介文に「抱腹絶倒」とあったので、ドレドレ!と言った具合だ。『夜のピクニック』『チョコレートコスモス』などが有名な恩田陸であるが、実は初読みである。
まず、読みやすさに驚いてしまった。ページが凄いスピードで減っていく。そしていつの間にか、展開に目が離せなくなっていた。抱腹絶倒…こそしなかったが、まぎれもなく、大変面白い小説であった。

 何の関係性も持たずにそれぞれの日常を過ごす、年齢も性別も、置かれている境遇も違う人物達。彼らが偶然にも東京駅に集結した時、運命が動き出した。一つのピースをきっかけに次々倒れて行くドミノのように、小さな偶然が次の小さな偶然を呼び、やがて大きなうねりとなって、東京中を巻きこんだ未曾有のパニックを引き起こす!

 はじめに表紙をめくって一ページ目、いきなり飛び込んでくる「登場人物より一言」にまず辟易してしまった。要するに登場人物紹介なのだが、その人数が普通じゃないのだ。なにせ28人である。名前と設定を一致させて記憶するには、かなり無理がある。「これを覚えなきゃ読めないのなら、無理かもな」と、誰でもよぎってしまうに違いない。
 しかし、よくよく「一言」を読んでみると、これが案外面白く書かれているのである。例えば、森川安雄「チャゲ&アスを聞いて自分を励まし、日曜は『世界遺産』を見て寝ます」とか、落合美江「見た目が派手だからって、中身までケバいと思わないでよね。普段のスーツはカルバン・クラインよ」といった調子だ。結果的に言えば、最後まで読んでもストーリー上にチャゲアスは全く関係無いし、それは他の人物にしても同じである。物語を読む上で必要な情報ではないが、何となく印象に残る人物紹介。これが後々、てきめんに効果を発揮してくるのだ。
 この小説の面白さは、多様な登場人物達が徐々に意外な繋がりを見せていくところにある。次々と場面転換するのが持ち味だが、その分スピーディな切り替わりについていくのが大変だ。「これは誰だっけ?」と疑問符を浮かべながら読むのでは、楽しさも半減である。しかしこの時に冒頭の人物紹介ページに戻ってみると、「ああ、この人ね」とそれまでの展開が蘇ってくるのだ。印象的な「一言」をキーワードとして結びつけて記憶しているので、すぐにその人物のストーリーへ戻ることが出来る。いわば「一言」のページは、あらかじめ用意されたメモ書きのように機能するのである。登場人物が多くて混乱しがちな内容に対して、上手くフォローがなされている。

 さて、内容に関してだが、巧妙に組み立てられているのが良くわかる。話の流れ上、時にあり得ないほど強引なシーンも見られるが、コメディという性質であれば許容範囲である。
 登場人物は子供から老人まで多種多様で、皆何らかの目的を持って東京駅にやってくる。その目的は、俳句仲間とのオフ会や倶楽部代表の後継者争い、または爆弾テロを目論む過激派など、一見他愛無いものからひっ迫したものまでこれも様々だ。ただ共通して言えることは、それぞれが自らの目的に対して真剣であり、一様に必死になっているという点である。これが大変面白い。かたや爆弾の入った紙袋を探している男がいれば、一方で大好きなスイーツを懸命に探す女がいる。本人達はあくまでも自分の目的だけに一生懸命であり、そのような場面が次々に描かれることで可笑しさを誘っている。場面転換のタイミングも絶妙であり、あっという間に引き込まれてしまう。

以下、ネタバレ

 紙袋の入れ替わりなど、全編にわたって多くの仕掛けが施されているが、一番「ヤラレタ!」と感じたのはダリオである。映画監督フィリップ・クレイヴンのペットとして序盤から登場し、ホテルを脱走して騒動を起こすが、これを勝手に犬だと思い込んでいた。よく思い返してみれば一度も犬だとは書かれていないし、フィリップがダリオの同行を隠していたことや、狭い所を好んで紙袋に入りこむといった行動も犬としては不自然なのだ。しかしそれらのヒントには気が付かず、ラストで紙袋から顔を出したダリオがイグアナだった時にはまんまと驚いた。人間の先入観とは恐ろしいものであるが、このようなトリックは楽しい。

 爆弾の起爆装置がどこに行ってしまったのか、ラストでは読者だけに語るような形で明かされる。個人的に「その後は想像にお任せします」というテイストのオチは好みではないのだが、この作品に関しては引きのバランスが良いので、むしろ心地よい終わり方だと言える。数多い登場人物達もきちんとそれぞれにエンディングを迎えており、終結のさせ方も鮮やかである。

 読中の愉快さは抜群で、エンターテイメントとして一級品である。読み手を選ばず誰でも楽しめるという意味では、お見舞いなどにも適した作品かもしれない。

#19_米澤穂信「氷菓」

いつのまにか密室になった教室。毎週必ず借り出される本。あるはずの文集をないと言い張る少年。そして『氷菓』という題名の文集に秘められた三十三年前の真実―。何事にも積極的には関わろうとしない“省エネ”少年・折木奉太郎は、なりゆきで入部した古典部の仲間に依頼され、日常に潜む不思議な謎を次々と解き明かしていくことに。さわやかで、ちょっぴりほろ苦い青春ミステリ登場!第五回角川学園小説大賞奨励賞受賞。

氷菓 (角川文庫)

氷菓 (角川文庫)

 「ボトルネック」が面白かったので、米澤穂信に興味が出てきた。じゃあ次はデビュー作を読んでみようかと思い、こちらを手に。

 高校に入学したばかりの折木奉太郎は、「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」という“省エネ”をモットーとする少年だったが、強引な姉の勧めにより、何故か古典部へ所属することになる。初めて部室を訪れた奉太郎は、そこでもう一人の古典部新入部員・千反田えると遭遇した。聞くところによると彼女は、名家のお嬢様らしい。
 奉太郎と千反田える、それから成り行きで入部を決めた、奉太郎の友人である福部里志、その里志を追いかけて入部してきた伊原摩耶花古典部の四人は日常のなかで、様々な謎に出会うのだった。

 高校生活といえば薔薇色、薔薇色といえば高校生活―このような冒頭分から、物語はスタートする。なかなかセンセーショナルである。
 主人公である奉太郎は、積極性があるわけでなく、逆に腐っているでもない、まさに“省エネ”というスタンスの少年。ことなかれ主義とも言えるかもしれない。そのような少年が仲間に引っ張られながら、何だかんだと東奔西走する羽目になり、実はそんな日常が少し楽しく感じてくる…。傍目、つまり読者から見れば、それが正に『薔薇色の高校生活』なのだ。彼らの日常は、大変羨ましく私の目に映った。

 奉太郎を取り囲む古典部の面々は、皆どこか少し変わっていて面白い。千反田は天然系お嬢様といった雰囲気だが、自己主張はしっかりとする。何事にも好奇心旺盛であるので、全体を通してストーリーを展開させるのはいつも彼女、という構図になっている。もう一人の女性主要キャラクターである伊原は、一見きつい性格のようだが、言動の端々に年相応の女の子らしい一面が見え隠れしており微笑ましい。
 そして、個人的には里志が一番好きなキャラクターだった。複数の部活を掛け持ちしたり、積極的に事件に首を突っ込んだりと、自らの日常を楽しく過ごす技を会得しているようだ。
「僕はねホータロー。まわりがどうあれ基本属性が薔薇色なんだよ」
斜に構えているように見せながらもどんどん周囲に巻き込まれていってしまう奉太郎に対して、里志はあえて渦に突っ込んでいくタイプである。鳥瞰的に物事を見られる分、実は四人の中で一番大人なのかもしれない。ポジティブな考え方を貫いている人間というのは、見ていて清々しいものだ。

 彼らが学校生活や部活動の中で出くわす様々な謎を、皆と協力し合いながら奉太郎が解き明かしていく…という形で物語は進められるが、事件自体は大変たわいない。取り立てて意外な結末が待ち受けている訳でもなく、その分、探偵役の奉太郎も活躍しきれないようであった。ページ数が200強と少ないので仕方ないのかもしれないが、少々物足りなく感じてしまった。本作が「青春ミステリ」と銘打たれているのであれば、「青春」の部分は良くできているが「ミステリ」としては弱い、といった所であろうか。

 あっという間に読み終えてしまったが、それほど印象に残らなかった。決してつまらなかった訳ではないのだが…。
 とはいえ、文体やセリフの言い回しは好みなようだ。もう少し米澤穂信の別作品を読んでみることにしよう。

#18_伊坂幸太郎「フィッシュストーリー」

最後のレコーディングに臨んだ、売れないロックバンド。「いい曲なんだよ。届けよ、誰かに」テープに記録された言葉は、未来に届いて世界を救う。時空をまたいでリンクした出来事が、胸のすくエンディングへと一閃に向かう瞠目の表題作ほか、伊坂ワールドの人気者・黒澤が大活躍の「サクリファイス」「ポテチ」など、変幻自在の筆致で繰り出される中篇四連打。爽快感溢れる作品集。

フィッシュストーリー (新潮文庫)

フィッシュストーリー (新潮文庫)

 伊坂幸太郎の短編を読むのは初めて。以前に読んだものでは『死神の精度』も短編集に入るのかも知れないが、そちらは主人公と世界観が一貫したシリーズだった。本書は、全く別の短編小説が四編収録されている。
 “全く別”と言えど、キャラクターが微妙に重なっていたり、他の作品で語られたエピソードが垣間見えたりと、いかにも伊坂幸太郎らしい演出は健在である。そういった作品同士のリンクを発見すると、ついつい嬉しくなってしまうものだ。


『動物園のエンジン』
 夜の動物園、シンリンオオカミの檻の前には永沢が寝ている。永沢は動物園の「エンジン」であり、彼の存在によって周囲の明るさや音、動物達の活気までもが違って感じられるのだ。昼はマンション建設反対運動に参加し、夜はシンリンオオカミの檻の前で眠る。「私」と、河原崎さん、恩田の三人は、そんな永沢の様子をそっと伺い始めた―。

 四編の中で最もファンタジー性の強い小説である。「エンジン」である永沢の挙動は謎めいており、他の登場人物達もどことなく危ういような印象を受ける。セリフの内容やジョークは軽快なものなのだが、不思議と全体的に鬱々としたような暗い雰囲気が漂っているように感じた。
 主人公が十年前の出来事を振り返る形なのだが、どうやら現在の「私」は平凡ながらも幸福な人生を送っているようである。十年前のパートでは彼自身の素性や主観はほとんど語られることはなく、あえて客観視を徹底しているようにも思われる。ページ数が少なくあっという間に終わってしまうが、主人公「私」というキャラクターについて、もっと知ってみたいような気もした。
 「河原崎さん」とは『ラッシュライフ』に登場した、死体のスケッチをする「河原崎」の自殺した父親であろう。強引で思い込みは激しいが発言は堂々としており、「河原崎さん」は良い意味でも悪い意味でも周囲の人間に多大な影響を与えそうな人物である。そんな父親に自殺されたとあっては、『ラッシュライフ』の河原崎が精神バランスを大いに崩した理由について、やや納得出来た気がする。
 『オーデュボンの祈り』の主人公である伊藤も登場している。「私」と恩田、伊藤は大学の同級生だったようだ。会話の内容から察するに、本作で語られる十年前とは、『オーデュボンの祈り』の少し前のことであるらしい。


サクリファイス
 依頼によって、ある男を探すために黒澤は小暮村を訪れる。人里離れたその村には、古い生贄の習慣に由来した、不気味な儀式の風習が残されていた。村民たちと出会い様々な話を聞くうちに、黒澤はいつしか、村の核心へと迫っていくのだった。

 様々な伊坂作品に登場する、泥棒を本職とする男「黒澤」が主人公のストーリー。本作では、副業である探偵としての一面が描かれている。
 俗世間とは隔絶された村に残る、謎めいた風習―とは、横溝正史を連想させる、ミステリの王道ともいうべき設定である。しかし内容は王道から少し外れて、必要以上に恐怖感をあおることはなく、ライトにまとまっている。短編という性質上、伏線の回収も早いので、物語はテンポ良く展開される。
 黒澤というキャラクターは、やはりカッコいい。決して感情的にはならず「「常にフラットな物の見方をするので、ミステリの探偵役としては適任である。自分の目的だけのために行動しているかに見せて、実は誰も傷つかないように振る舞うところも好感が持てる。
 ラストの「オチ」はかなりのご都合主義で違和感を覚えたが、短編なのでこれもアリなのかもしれない。ハッピーエンドがふさわしいストーリーであることは、間違いないのだ。


『フィッシュストーリー』
 「僕の孤独が魚だとしたら」―二十年前、とある男の運転する車のカーステレオからは、とうに解散したロックバンドの最後のアルバムが流れていた。小説の文章を引用したその曲は、演奏途中に突然音の途切れる箇所がある。渾身の思いでレコーディングされたアルバムは十数年の時を超え、不思議な繋がりを持ちながら未来を変えていく。

 表題作。過去に映画化もされている。いかにも伊坂幸太郎らしい演出満載の、爽快な物語である。
 解散の決まったロックバンドが最後に作った一曲をきっかけに、とある人物が救われ、その結果生まれた息子が、十年後に世界を救う発見をすることになる女性の命を救う。バタフライエフェクト。「風が吹けば桶屋が儲かる」の新訳とも言えそうだ。次々に未来へとリンクしていく様子は心が躍るし、実際どのような事柄も始めは些細なきっかけに過ぎないのかもしれない…と思うと、ロマンを感じずにはいられない。
 時系列通りに書かれていないところも、良く計算された効果である。どうして曲に無音部分が生じたのか、という見方のミステリとしても機能している。冒頭に登場する二十数年前のパートで男が友人とレコードについて語るが、その居酒屋はロックバンドのメンバーがレコーディングの打ち上げに使っていた。店員の言い回しでそのことが分かるというような細かい伏線も、読んでいて楽しい。現代のパートには、『ラッシュライフ』で拳銃強盗をしていた老夫婦も登場している。
 ちなみに「fish story」とは、ほら話のことらしい。


『ポテチ』
 大西は妙なきっかけから空き巣を生業とする今村に命を救われ、やがて一緒に暮らすようになった。子供のようで掴みどころのない今村だが、とある人物の部屋に忍び込んで以来、どこか様子がおかしいようにも感じられる。やがて大西が知ることになるのは、今村の出生に関する秘密だった―。

 個人的には、四編のなかで一番好きな作品。最近、映画化が決定したようである。
 大西と今村はごくありふれた恋人同士のようでありながら、直ぐにも消えてしまうような関係性にも思えてどことなく切ない。ふわふわした現実感のない発言の目立つ今村に対して、大西はいつも現実的で冷酷にも感じられる。そのような二人の会話がコミカルなのだが、不安定な二人の関係を表現しているようでもある。
 『サクリファイス』では主人公を演じた、黒澤も登場する。泥棒稼業の先輩として今西から慕われているが、今西の心情を察して心配する様子は、今までに出会ったどの黒澤よりも人間味が感じられた。少し意外な印象すら残すほどである。
 今西の出生の秘密―オチとなる部分に関しては、かなり早い段階で察しがついてしまった。具体的には、アイスに名前を書き忘れた大西を今村が叱るシーンから気づき始めたのだが、序盤からこのような比較的分かりやすい伏線を入れているあたり、作者側にも読者を驚かせようという意図はないのかもしれない。そもそもタイトルが『ポテチ』である以上、今村がポテトチップスを食べながら涙を流すのが重要なシーンであることは明白なのだし。
 ラストシーンは少々強引だが、それでも感動的である。きっとこの様になるだろう、なればいいな…と想像した通りのラストであり、爽やかな読後感を残す。作品集全体として見ても、最後に収録されているのが本作で正解に思う。
 ちなみに今村も、『ラッシュライフ』に少しだけ登場している。


 短編である以上、いつもの巧妙な伏線やトリックは控えめだし、ストーリー展開も多少強引さが目立つ。しかしどの作品も読んで良かったと思えるものであり、十分に楽しめた。
 ただ、初めて伊坂幸太郎を読むのであれば、やはり長編の方をオススメしたい。何作か別の作品を読んだ後の方が、きっと一層本作の面白さを味わえるはずである。

#17_米澤穂信「ボトルネック」

亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した…はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。

ボトルネック (新潮文庫)

ボトルネック (新潮文庫)


 米澤穂信、「このミステリーがすごい!」2010年版の作家別投票一位になった作家である。近年では『インシテミル』が映画化されて話題になった。
 初めて読んだのだが、なかなかに衝撃的だった。

 高校一年生の嵯峨野リョウは、亡くなった恋人諏訪ノゾミを弔うために東尋坊を訪れた。花を手向けようと崖下を覗き込んだ瞬間、「おいで、嵯峨野くん」突如襲われる浮遊感。―落ちた。そう思った次の瞬間、何故か地元の川原のベンチで目が覚める。記憶が混濁しているのか?しかし手元には東尋坊へ向かう往復切符の、復路分だけが残されていた。
 戸惑いながらも家に帰ったリョウを迎えたのは、見ず知らずの少女だった。嵯峨野サキと名乗りこの家の娘であると主張する少女に、リョウはいよいよ混乱する。自分に姉はいない…いや、生まれなかったはずなのに。しかし家の中から見つかるのは、サキが嵯峨野家の娘として存在している証拠ばかりであった。
 リョウの代わりにサキが生まれた、もう一つの「可能世界」。そこは果たして、リョウの知っている世界とはどのように違っているのか―。

 「もしあのとき、こうしていれば」という後悔は、意味がないと知りつつも尽きないものである。後悔の先をどんどん遡っていくと、最終的に行き着くのはきっと「もしも自分が生まれてこなかったら」。この小説は、そんな「もしも」を自分自身の目で確かめていく物語である。
 ミステリと思って読み始めたが、設定からも分かるようにSFの要素が強い。主人公が唐突に別世界へ入り込んでしまうという趣向のSFはそれほど珍しくないが、どうしてそのような事態が起きたのか思案を巡らしたり、元の世界に戻ろうと必死になったり一切しないというのは少し新鮮だ。というのも、主人公のリョウが無関心・無感動を心情にしているキャラクターだからである。
 設定もキャラクターも決して明るく楽しいものではないのだが、書き味がライトなのでテンポよく読み進めることが出来る。ともすれば陰鬱になりそうなテーマを、細かな複線を多用した仕掛けや他愛無い会話シーンなどを盛り込むことですんなり読ませるのは、作者の手腕であろう。

 リョウが目を覚ました、別の「可能世界」とは、つまりサキが生まれた世界である。母親は兄ハジメを生んだ跡に女の子を妊娠したが、水子となってしまった。両親は子供は二人と決めていたため、リョウが生まれた。リョウは死んだサキの代わりに設けられた子供であり、当然サキが生まれた世界にリョウは存在しない。嵯峨野家の第二子として生まれたのはサキかリョウか、リョウは「サキだった」場合の世界へ入り込んだことになる。
 このような設定の構図上、リョウとサキはことさら対照的に描かれている。リョウは常に自分の感情を排除するように努めており、自分の境遇や将来すらも諦めているかのように見えるのに対して、サキは自らを「オプティミスト楽天家)」であると称しており、それに違わず明朗快活で、多少強引なところもある。ストーリーに動きをもたらしているのはサキというキャラクターの功績が大きく、ちぐはぐな二人の会話もコミカルで面白い。

 家の中や街中で、リョウは自分の世界との様々な違いを発見する。生まれたのがサキかリョウかの違いでどうしてこのような相違が生じるのか解き明かしていく工程は、純粋にワクワクする。タイムスリップもののSFで頻繁に取り沙汰される「バタフライ効果」だが、このような設定は珍しいかもしれない。

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 そのような中で、リョウは二つの世界の決定的な違いに出会ってしまう。サキの世界では、最愛の恋人であったノゾミが生きていたのだ。なぜノゾミは生きているのか…逆にリョウの世界ではなぜ死んでしまったのか、リョウとサキは答えを探し始める。本作品のミステリ要素はこの一点に集約されているのだが、正直それほど驚きの真相が隠されている訳ではない。しかし設定が特殊であるため、単純な犯人探しとはひとあじ違った読みごたえで、新鮮な面白みがある。

 両親や兄、そしてノゾミ。サキの世界でリョウが目にしたものは、何もかも自分の世界より良い方向に変化していた。唯一の心の支えであったのはノゾミに恋していた気持ちだったが、そのノゾミでさえも虚像であったことが分かる。やがてリョウは気がついた、自分こそが『ボトルネック』であると。
ボトルネック】システム全体の効率を上げる場合の妨げとなること。全体の向上のためには、まずボトルネックを排除しなければならない。
 「自分がいる世界」と「自分がいない世界」を比較するなどということは、少し想像しただけでも残酷である。まして、「いない」世界の方が明らかに幸福そうであったとしたら…。まさに絶望と呼ぶにふさわしい感覚を味わうのではないだろうか。クライマックスでリョウがサキに語る言葉には、そのような心情が表現されている。感情的に怒鳴り散らしたりするわけでもなく、きちんと気持ちを整理した上で出た言葉だということが分かるので余計に痛々しいシーンとなっている。

 ラストシーンは、様々な解釈の余地を残して締めくくられる。個人的に「皆様のご想像にお任せします」的なオチは好きではないのだが、この小説に関しては納得出来た。あまりにも救いがないのも、逆に唐突なハッピーエンドを迎えるのも違う気がするので、読者の好みによってそれぞれ想像させるのが一番良いのかもしれない。
 私としては、やはりリョウに生きていてほしいと思う。

#16_有川浩「図書館革命」

原発テロが発生した。それを受け、著作の内容がテロに酷似しているとされた人気作家・当麻蔵人に、身柄確保をもくろむ良化隊の影が迫る。当麻を護るため、様々な策が講じられるが状況は悪化。郁たち図書隊は一発逆転の秘策を打つことに。しかし、その最中に堂上は重傷を負ってしまう。動謡する郁。そんな彼女に、堂上は任務の遂行を託すのだった―「お前はやれる」。表現の自由、そして恋の結末は!?感動の本編最終巻。

図書館革命 図書館戦争シリーズ (4) (角川文庫)

図書館革命 図書館戦争シリーズ (4) (角川文庫)


 図書館戦争シリーズ第四巻、いよいよ完結編。レビューをアップするのが遅くなってしまったが、一巻目「図書館戦争」を読み始めてから一週間でこの「図書館革命」までの四冊を読み切った。私にしてみればかなりのハイペースなのだ。
 とても充実した、楽しい一週間だった。

 さすが最終巻というだけのことはあり、スケール感もスピード感も最高潮だ。今回は二、三巻のように幾つかのエピソードを盛り込む形ではなく、一冊を通じて一つの長編エピソードが語られる。

 突如発生した原発テロに、内容が酷似しているという小説が浮かび上がった。作家の名前は当麻蔵人、実は堂上は彼のファンだった。対テロ特借法の追い風を受けて当麻の確保に乗り出したメディア良化隊に対し、図書特殊部隊が警備を担当することに。手塚慧との共闘や玄田による報道界を巻きこんだ奇策は成功したかに見えたが、行政訴訟の敗訴とともに図書隊側の状況は悪化の一途を辿る。そんな中、会議で郁が何気なく(意味も分からず)発したアイディアは起死回生の可能性を孕んでいた!特殊部隊の面々は、一世一代の大作戦に挑む…。

 表現の自由と、犯罪を誘発させうる文章の危険性。扱うテーマは身近であり簡単に結論付けるのも難しい問題だが、作品自体は相変わらずテンポ良く書かれており読みやすい。最終巻に至るまでの三巻でバックグラウンドは完璧に出来上がっているのでストーリーにすんなり入っていけるし、なにより全シリーズで見てもこの「革命」は、スピーディーさが群を抜いている。シリアスなシーン、息もつかせぬようなアクションシーン、コミカルな会話シーンと、絶妙に展開するところはさすがである。
 それにしても、テロ事件と内容が似ている小説が糾弾されていくとは、然もあり得そうなことではないか。小説に限らず映画や音楽にしても、それは作品として自然に受け入れられていたはずなのに、ひとたび犯罪との関連性が垣間見えただけで、まるで作品自体が悪であり犯罪であるように報じられる。逆に言えば、たとえば大活躍をしたスポーツ選手の「じつは毎朝食べる納豆に勝利の秘訣が!」などという実しやかな報道により納豆が売り切れてしまう…というような風潮も同じなのだが、人間と言うのはとにかく、分かりやすいシンボルを必要としてしまうものなのだろう。こと犯罪心理など、複雑で分かりにくいものであればあるほど、単純な象徴に置き換えたくなる。それが小説であり、納豆なのだ。

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 さて本編であるが、まず一つ不満をあげるとすれば、あまりにあっさりと手塚慧が陥落してしまったことであろうか。それは柴崎の力によるところとも言えるが、手塚慧こそがラスボスであるに違いないと(勝手に)思い込んでいただけに、最後の最後にもう一回くらい裏切ってくるんじゃないか!?などと、あらぬ想像に思考を割いてしまった。しかし手塚慧は曲がりなりにも図書隊の人間であるし、あくまでも検閲との闘いがテーマであるならば必然的とも言えるだろうか。それに何と言っても手塚の実の兄だし、考え方が違うだけで基本的には味方という方がキャラクターにとっては幸せな解釈である。柴崎との電話での会話シーンは、郁たちの直接的なものとは違うひとつの「戦い」として、大変読みごたえがあった。
 大使館駆け込みの失敗から堂上の負傷、郁と当麻が大阪に向かい展開する作戦…と、クライマックスまでの流れはさながらアクション小説のような疾走感があった。これまで散々周りの非凡な面々に助けられてきた郁が、ここへ来て初めて自分自身の能力のみに頼らざるを得なくなる。しかしそこは郁の事だ、一度前を向いたら最後までやりきってしまう。ここまで主人公然とした主人公は、逆に珍しいかもしれない。一貫して言ってきたことだが、問答無用に「カッコいい」。

 そして当然のことながら、郁と堂上の恋にも結末が訪れる。重傷を負った堂上を残して郁が大阪へ向うとき、分かれすがら郁の方から堂上の唇を奪うのだが、柴崎といい郁といい、この小説に登場する女はどこまでも男前である。
「大丈夫だ。お前はやれる」
「あたし、帰ってきたらカミツレ返して、堂上教官に好きって言いますから!」

 (本人達を除いて)お互いの気持ちが明白過ぎた二人だが、一歩を踏み出すのには何かきっかけが必要だったのかもしれない。勇気を振り絞るのはいつも郁のような気がして少しズルくも思えるが、堂上は言葉より態度で示すタイプなので良しとしよう。
 何はともあれ、にやけ顔を浮かべながらずっと見守ってきた二人が無事幸せになれたようで、良かった良かった。

 シリーズ通して、こんなに熱中したのは久しぶりのことだった。最終巻を読んでいる時には、ページを繰る手が止められないが、それと同時に読み終えてしまう寂しさすらも感じたほどである。
 他の有川浩作品も手にとってみることにしようと、興味がかなり湧いている。いずれまたこの様な、エキサイト出来る小説に出会うことを願うばかりだ。